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P.D.Q.バッハの楽譜(どこにあるんじゃー)

2008/ 01/ 25
                 
パーティー昨日の会社帰り、P.D.Q.バッハの楽譜を探しにヤマハへ寄った。
で、見つからなかった。お店の人にも聞けなかった、恥ずかしくて。だって「短気ん律」なんてさー…。
「すみません、P.D.Q.バッハの楽譜はありますか」
「P…? C.P.E.バッハ…ではなくて…」
「P.D.Q.です。えーと、『短気ん律クラヴィーア曲集』とか…シックリー教授の名前になってるのかな?」
「シ…?」
            

いや、相手もプロだ。当然知ってるかも。
「P.D.Q.バッハでしたらございません(きっぱり)」
ここで「あるわけないでしょ、なに言ってんの」という顔をされるとも思わないし、「ふっ…P.D.Q.をご存知なんですね…ふふ」という顔をされるとも思わないし、「わーご存知なんですか! でもないんですよお」と言われるとも思わない。ヤマハって私にはそんなイメージだ。ま、そのほうがいいけど…。
いずれにせよ、聞けば調べてくれたでしょうが、聞けなかった。恥ずかしくて。
事前にヤマハのサイトで検索したら、なさそうだったんだよね…。これでなければ、店頭にもないか。でもそれ以前に、楽譜検索をすると文字化けすることが多いのだ。私のPCだけか?

ヤマハにはたまーに行く。一応、フィーリングクラブっちゅーもんの会員になり続けているので、年会費の元を取るために少しは買い物をしたほうがいいのだ。
でもものによってはAmazonのほうが安かったりすることもある。先日、ジョージ・ウィンストンの楽譜をAmazonで2000円弱ぐらいで買ったが、ヤマハでは2600円以上していた。同じものだと思うけど。

そんなですが、本屋さんなんかでもそうだけど、やっぱりお店に行くことも必要だよなと思う。ネットだと、深く狭くになってしまいがちですもん。
私の場合ヤマハに行くと、学生時代のレッスンや、音楽教室で教えていた頃や、そんなことを思い出して赤面したり落ち込んだり悔やんだりドキドキしたり…はあああ。それからピアノが弾きたい!という気持ちがムラムラ? メラメラ?と。
実際、「短気ん律クラヴィーア曲集」でクリストファー・オライリー氏の流麗な演奏を聴いてしまったからだろうか、ここ数日またあの悪夢がよみがえったのだ。
演奏会当日…というか舞台袖で待機中だというのに、実は全然弾けてない。でも、楽譜見ながらだったらなんとか弾けそう…って、本番は暗譜だよ! どうしよう~~!

はっ…夢か…

mixiで、ピアノで食ってる同級生の日記を見ているからかもしれない。身近なところでは、夫だって。

そんなわけで、P.D.Q.バッハの楽譜は手に入れられなかった。銀座店襲撃かなー。その前に、電話かなんかで問いあわせてみてからのほうがよさそうだね…。
せっかくだから他のものをと思ったけれど、咄嗟に思い浮かばない。それに家にはまだ、待機中の楽譜たちが大量にあるのだ。あと平均律とショパンのエチュードは、いつでも全部弾けるようになっておきたいなあ(ええええ?!)。当分、楽譜は買わないほうがいいかも…。

あ。そうだ、娘に買って帰ろう。絵本みたいに。
なにがいいんだろうか? 私自身はヤマハの幼児科→バイエル→ツェルニーというパターンだったけど。夫や夫・両親が教えるときは、呉暁さんの「うたとピアノの絵本」を使ってるかな? 実は何曲かは、夫が歌ってあげたのか娘も歌えるみたい。じゃあそれにしよう。
娘が歌っていた曲が入っていた「うたとピアノの絵本」の右手版を買ってヤマハを出た。
実はこのころ、家ではすごいことになっていたらしい。


すっかり遅くなった。しかも池袋駅のホームで待っている間、んもー寒くて寒くて…。数日前に積もるほどもなかったがやっと雪が降り、本格的な冬の寒さになった。しかもすごい風。
上尾に8時頃着、なんとか帰宅したとき、娘は普通におままごとをしているように見えた。
「桶川のおじいちゃん、おばあちゃんちにいったんでしょ? 楽しかった?」
「うん、でもね、風が強くて泣いちゃったの」
その後、娘がトイレに行き「うんちー」と言って閉じこもっている間、夫が「すごいこと」の経緯を話してくれた。
おままごと中、100円ショップで買ったワイヤーの棚を椅子のようにしてすわっていて(きっと買ったときについていた説明書きには、「お子様を遊ばせないでください」とか「すわらないでください」とか書いてあっただろうなあ)後ろにひっくり返ったらしい。そして誰も叱っても責めてもいないのに、怒り出す娘。おまけに夫のせいにしたんだと。
「お父さんがお尻に魔法かけたからだよっ!」
ぶははは! …と笑えないのですよ。はあ。
まあとにかく、すごかったようだ。そしてどうも、2階の部屋にとじこめて、反省させたりもしたらしい。夫がそこまでするのは珍しいことだ。最終的には話しあって、娘が謝り、落ち着いたようなのだけど。
なんていうか…「~でいいよ」というちょっとした返事も気になるし(これは夫もか)、たとえば向こうが「見て」と言っているときにこちらが見なかったりすると、「もう見なくていいよ」とか怒るし(これは私もか…)、まあ、なんか棘がある話し方するときがあるっちゅうか。妙にカリカリしているときがあったり。カルシウム不足か?

娘を見ていて思うのが、子どもは勝手に育つ、が、やっぱり親の影響は大きいということ。なんだかんだいって、やっぱり娘は私に似てるんだよなあ。
そして、例えば親ができていないことを子どもに「~しなさい」と言って、言うことを聞くかどうか。私だったら、「片づけなさい」とかだろうか…へへへ。叱ったり手をあげたりして無理矢理させることはできるかもしれないけれど、それはその場しのぎなわけだ。じゃあ、どうやって片づけをさせようか?
①一緒にする
②反面教師に徹する…おい。
あー、でもこれしか思いつかない。

まあとにかく、まっさらな状態で生まれてきた人間が、自我や知識をもって成長していくっていうのは、目に入ったもの、耳に聞えたものを真似していくことなんだなーと、娘を見ているとつくづく思う。持って生まれたものというのがあってもね、やっぱり「親」とか「家」「環境」の影響は一番だ。
そして、善悪の判断がつかないうちは、とにかくなんでもかんでもストレートに取り込まれるわけで、だから親は躊躇せずに悪いことは悪いと言わなきゃいけない。けど、親がその悪いことをしているのに、子どもには「いけない」というのでは、子どもは納得いかんやろうね。
別に、子どもに真似させるために親が行動するってわけではない。親だって大人だって失敗することもあるし、間違ったことをすることもある。でもそんな親を見ながら子どもは、大人はああいうものだ→自分も大人になったらああなる、もしくはああなりたくない、というものが自然と植え付けられるもんだ。だから、それを覚悟で動かなきゃいかんと思う。だって、一番身近で、まだそこまでしか世界を知らないんだもの。

続く。

            
                                  

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